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肯定すること

原理は心情の神様、親なる神様を説く。としたら、全被造世界は神様の心情、親の心情から出発した。
神様は100%、ホントに100%完全な調和の世界、肯定的要素をもって私たちを創造した。

もし、神様に一点の疑いや不信(果たしてできるだろうか?)があったら創造はストップ、破壊していたに違いない。

それなのに自分のこの不信感、疑心なる心、すきあらば自分を否定してしまいたくなる自分はどこから来たのだろう?
ここで、私たちの血統は神様のものでないことに気づく。
それゆえ、堕落した血筋の私たちは不信、疑心、自分自身を疑うことにこそ人間らしさがあると考え、100%肯定的発想、生き方がアホらしく思えてくる、ということになるのだろうか。

肯定哲学がはやり、多くの人が試しているけれど、うまくいかないのではないか、というわずかな疑念が失敗につながっていく。その疑念こそ肯定哲学ではもってはいけないものなのだが、血筋が違うということはどうしようもない。

私みたいに根っから肯定哲学を疑ってかかるやつはよっぽど血筋の悪いやつに違いないと思ってしまう。

それでも、神様を知って、原理を知って、努力してみるもんだ。と思う。
人を肯定するように、するようにと生きてみたら、自分が肯定出来る様になってきた。
あるいは逆かも知れない、自分を肯定するように、と生きてみたら、人を肯定できるようになってきた、ともいえる。

祝福によって血筋が変わる、ということは、そういう心情に転換されるようになって初めて実質的な自覚ができ、神様の心情がわかる、ということなのかもしれない。

究極の肯定哲学?あるいは祝福を土台とした肯定哲学は根本的な心情転換をもたらすものになる?

話がなんだか大きくなってきた。ここらへんでやめとこう。

たぶん、一生、あるいは3代はかかる心情革命。もっとかかるかもしれないが、希望の光はみえてきたような。
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素朴な信仰心

信じる、ということは大切。誰もがそう思う。

特に人と人とが信じあう、信頼関係。これはどんな人でも大事なことであることに反論する人は(よほどひねくれ者でなければ)いないと思う。ところがここに「宗教」がからんでくると、特に「神様」を信じる信じない、「霊界」「死後の世界」を信じる、となるとこれは反論する人、冷笑する人、関係ないと切り捨てる人、さまざまであろう。

もちろん、自分は「神様」も「霊界」も信じることが大切だと思うが、一方でそういうことをばかげたことだという人もいることは理解している。むしろ歯がゆいのはそういう人に対して「証拠」を突きつけられないことだ。

最近、そういうことについて、いろんな人との会話のなかで、感じることがあった。

「神様」「霊界」に対して否定的な人の傾向はその人に自己の人生の話をきいてみると、ほとんどが「恨み」で終わってしまっていることだ。感謝や感動がまったくか、ほとんどない。まったくない人は自分の人生自体を感謝できないし、思い出したくもない。はたから聞いていればとても親から愛されているのに、本人はそれを逆に恨みにしていまっているということだ。

それがわからない、ということは見えないものに対して信じる心が育たない、ということなのだとおもう。

そういう人の心を受けとめ、励ましてあげられるようになりたい、と思う。

傲慢かもしれないが、自分は本当に親から、兄弟から、みんなから愛されてきた。
もちろん、哀しいことや苦しいこともいっぱいある。でも今はそれが感謝で捉えられるようになっている、そのこと自体が感謝になる。

ときには自分を嫌う人もいた、誤解されたこともあった、それ自体を感謝できているか、恨みにしているか。

その分岐点を分けるものは何なのだろう。きっとどんな人でもすべて感謝に分けることができる能力があるに違いない。それを信じていきたいと願う。それを信じて生きることで力を得るのだろうと・・・

なんだか漠然としているが、そう感じるこのごろ。

信仰心の出発。今日の礼拝説教のみ言を聞きながら、信仰の原点を見出した気がした。

みんなが幸せであることを願います。

信仰の原点

6月1日になりました。

月初めの敬礼を終えて、月初め、さて、今月はどんな一ヶ月になるのだろうと思い、ふと自分を振り返ってみた。

信仰とは「望んでいる事柄を確信し、まだ見ぬ事実を確認すること」とはパウロの言葉。

昨日、偶然にも1988年のノートが出てきた。この年の10月30日、統一教会では韓国で6500双の交差祝福がなされた日であると、あとで知ったが、ともかくこの日が自分が原理に触れた記念すべき日。いや原理に触れたというより神様と出会った、と表現したほうがはるかに実感するのであるが。

そこで原理を学び始めて、ノートを見返してみると、11月23日、文先生のお名前を初めて知った、とある。
統一教会について何も知らなかった私は、翌年から信仰生活を始めたことになるが、毎月毎月、新鮮の連続だった。いや、過去形にしてはいけない、いまも形は違えど新鮮ではあるが(いいわけ・・・)。

21年と半年。振り返るに信仰生活は一見地味で、神様を知らない立場からみれば、なにを好き好んで、というような生活にみえるかもしれないが、21年間をあらためて振り返ってみれば、こんなにエキサイティングな人生はなかった、と21年という期間全体を振り返ってみた自分の実感である。

今も、毎日毎日、なにが起こるかわからない、悪く見ればこんなに不安定な、目先だけみれば行く先も見えない自分であるが、よく見れば、瞬間瞬間が神様によって導かれた証をたてることのできる、貴重な人生を生きている自分と捉えることもできる。

「素晴らしき哉、人生!」ですね。

臨死体験

立花隆氏の「臨死体験」上・下を以前読んだことがある。

あくまでも私の読後感であるが、臨死体験の存在を客観的に捕らえようとして、懐疑的なアプローチを試みている文章は、少ししつこいくらいであるが、臨死体験研究の全体的な把握にはとてもいいものだと思うし、人の話をすぐ信じてしまうような自分ではとてもできない(比較にもならないが)労作だと思う。

書評をするわけではなく、この本の最後で「死が怖くなくなった」と著者は書いている。

臨死体験後の生活、価値観の転換というのはこの本の中でも紹介されている。ほとんどがポジティブな変化がおきることだ。(知りたい方はWikipedia:臨死体験-臨死体験者に起こる変化を開いてみてください)

その項目を拾い読みしているうちにふと、気がついた。

原理に触れて変わった(開かれた)自分の価値観にかなり重なるということだ。さらに、「死が怖くなくなった」という立花氏の表現は、自分が原理の霊界について(原理講論第6節「人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界」)を学んで感じた感覚と同じものだいうことに。

統一原理に触れた自分の実感は、臨死体験者に起こる変化、特に死に対する恐怖感の克服というものと同質だと思う。

文字通り永遠の生命、死後の永世についてもっともっと知りたい、と思うのである。

実はこんな記事を書いたのにはわけがある。あるブログに触れたことがきっかけであるが、それは機会があれば別記事で載せたいと思います。

今日は寒かったです。


プロフィール

kanstudies

Author:kanstudies
大田区在住23年になる統一教会・大田教会の一信徒の雑感。羽田も国際化してますます大田は我が第二の故郷として世界に誇る街になってきました!

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